はじめまして。fukuと申します。いろいろ検索しているうちにこのHPを知りました。
さて、赤毛のアンのラストの『God's in His heaven, All's right with the world.』 〜神は天にあり、世はすべてこともなし〜
Browning・Robertの有名なこの言葉、分かり易くいうとどういう意味なのでしょうか??(恥)
不勉強で大変お恥ずかしいのですが、どなたか私に教えていただけませんか?
それでは宜しくお願い申し上げます。
松本侑子さんが翻訳されたアン(集英社)の中に、この言葉の解説があります。
ここに書込んでしまうと著作権にひっかかる可能性があるので、お手数ですが
本屋さん等で確認してみて下さい。
もしかしたら山本先生が翻訳された完訳版にも解説が載っているかもしれません。
ながらく最初の翻訳(上田敏?)に準じていましたが、今となっては、
「天にまします我らが父よ、世はすべて御心のままに。」
ぐらいがわかりやすいかもしれません。
"旧約のヨブ記"や、"十字架上のキリストの嘆き"を踏まえ、西洋文学の一大テーマと
なったのが、 人間界の不正義を放っておられる"神の沈黙"です。
それは、「なぜ、この状況を見過ごしておられるのですか」 という信者の葛藤でもあり
問い掛けでした。
仏教圏、及びイスラム教圏、ユダヤ教圏では、個人(または集団)の救済が 「信心、善行
を積む(または戒律を守る)」ことによってなされるという「因果応報」の教義です。
つまり、日本人には普遍的に思える、正しい行い → 救済の文化圏です。
ところが、キリスト教(特にプロテスタント)の立場は、(パウロ&カルバンに顕著
ですが)「人間側の善悪の尺度で計ってはならず、救済は神が予め決めたもう」 という
「予定説」の教義です。 世の中すべての事象が神の思し召しというわけです。
この予め決定されている救済に対しては、神が自らの御子を身代わりに人類の罪を
贖って下さったこと(大いなる愛)を信じるしかありません。
男の子と間違われたアンの悲劇も寂しい老兄妹への福音として幸せな晩年をもたらし、
最初は、 「神様が赤い髪に・・。」「神様だってバーリー夫人の・・・」といっていたアンの
物語も、「神は天にいまし、世はすべて御心のままに。」 と、深い悲しみの出来事もまた、
大いなる愛情のもとに幕をおろします。
モンゴメリの、「人と人との愛情・ふれあいの中に神が人に思し召した"おおいなる愛"
をみいだす」物語は、彼女の信仰の葛藤と拠り所をかいまみせてくれると考えるのは
うがちすぎかもしれませんが。
-----蛇足-----
プロテスタント的精神は、自然界の事象の奥に神の深い英知の御技を見い出す信仰の
もと急速に科学を発達させますが… 地質学の発展・進化論の発表が、まさにアンの
時代です。
ゆらぎかけた真理・旧来秩序の崩壊・国民国家成立による国民皆兵・帝国主義に
よる戦乱・金銭資本主義・価値観の変化 …これら大きなうねりをもって時代が変
わっていこうとしていました。
発表当時においてさえ牧歌的と評されたアンの物語ですが、その世界でこそ「人の信頼
と愛情が社会を支えている。」という共感の普遍性を信じれる物語が純粋に成立します。
逆に、その規範が失われつつあった世の中(現代も含めて)でこそ、ノスタルジックな
感傷を呼び広く支持されるのでしょう。
…世界大戦中となったアンの娘リラの物語になると、「世はすべて御心のままに」を
信じれる時代ではなくなっていました。
こんにちわ。『赤毛のアン』シリーズの全文訳をしている松本侑子です。
この一節は、19世紀イギリスの詩人ロバート・ブラウニングの劇詩「ピッバが通る」の中にある、「朝の歌」という短い詩の一節です。
主人公の少女ピッパが、年に一度の休日を迎えて、晴れ晴れとした心で歌う明るい歌です。
純真な心で努力していれば、あとはすべて天の神が守りたまい良いようにお導き下さるという意味です。
この詩の解説は、『赤毛のアン電子図書館』というサイトの目次3「赤毛のアンに隠された英米文学」の第38章でご紹介していますので、そちらでご覧下さい。
本でもっとくわしくお読みになりたい場合は、『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』(集英社)というエッセイ集を出しています。
こちらは『赤毛のアン』に登場するシェイクスピア劇と英米詩のほとんどすべてを解説していますので、ご希望にそえるかと思います。